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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 

鯖街道を往く

鯖街道(国道367号線−若狭街道)


概略


私達が八瀬・大原・滋賀県・福井県に行く時や修学院・出町柳・京都市内へ行く時には若狭街道や川端通を利用して行き、最も重要な生活道路でもある。その道は現在に限らず歴史的にも若狭と京都とを結ぶ重要な道路であった。古代飛鳥・藤原・平城京に塩や魚も税として運ばれ、特に発展するのは中世以降で若狭の鯖をはじめ海産物を中心に京都へ物資が運ばれた。

若狭から京都へのルートは「若狭街道ルート」、「名田庄ルート」、「根来・針畑超えルート」、「湖上ルート」等陸上・湖上をふくめ数ルートあったといわれている。

小浜は、江戸初期〜江戸中期にかけ北前船の日本海側の要港として特に栄えた。しかし、江戸中期後半になると北前船の多くは瀬戸内海経由大阪まで航行するようになり小浜の荷揚げ量は激減した。若狭街道経由の物資も次第に減ってきたが、鯖をはじめ若狭の幸は明治、大正もこの道で運ばれた。大正7年小浜線が開通し、この頃から鉄道が主流になってきてその役目を終了した。

現在は、小浜へは車で2時間ほどで行けるが、古代より人の足で、江戸時代でも人の足で丸1日かかって若狭街道を京都まで海産物を中心に運んでいた。千数百年来の往来により若狭は京都の文化の影響が随所に見受けられる。



若狭街道ルート


小浜市→遠敷(おにゅう)→北川に沿って→上中町→熊川→水坂峠→保坂(ほうさか)→安曇川沿い20km走る→朽木村市場→大津市葛川(かつらかわ)→花折峠→滋賀途中→小出石→大原→八瀬→上高野→山端→修学院→高野→田中→百万遍→西へ出町の大原口

京都からは逆コース
出町の大原口→東へ百万遍→田中→高野→修学院→山端→上高野→八瀬→大原→小出石→滋賀途中→花折峠→大津市葛川→朽木村市場→安曇川沿い20km走る→保坂→水坂峠→熊川→上中町→北川に沿って→遠敷(おにゅう)→小浜市





街道沿いのまち


@ 小浜
室町〜江戸後期にかけて日本海側の要港として北前船(松前〜日本海沿岸〜瀬戸内〜大阪ルート)を持つ廻船問屋が栄え日本海沿岸諸国の物産を集めた。象を積んだ南蛮船が来港する等海外文化の流入路(1600年)でもあった。小浜城は1600年に藩主の京極嵩次が河口の中州に建てた。その後家光の老中であった酒井忠勝が藩主となり大きく発展し11万石となった。
海産物店が並ぶいづみ町には鯖街道の起点を示すプレートがある。又、西部三丁町(さんちょうまち)には、べんがら格子の家が残り北前船で賑わった名残がある。
 小浜市の東部に遠敷(おにゅう)というところがあり、古代にはさまざまな文化がもたらされ、そのうち仏教文化が花開き「海のある奈良」と言われ寺院が多く、中世から近世にかけて六斉念仏(踊り念仏の一種)や祇園祭の祭礼、壬生狂言、てっせり踊りなどが小浜をはじめ若狭に伝わった。東大寺二月堂の芳狭での「お水送り」も奈良と遠敷との深い関係がある。

A 熊川
 1529年峠寄りに関がもうけられ、一帯は軍事・交通の要衝だった。
1587年浅井長政(若狭の領主)に諸役免除の判もの(お墨付き)を与えられ、街道の宿場として整備してから発展した。代代若狭の領主が保護政策を続けたため物資輸送の中継地として、大きな問屋や脇問屋も軒を並べ商業の町として繁栄した。記録によると鯖やその他の魚類のみならず、タバコ、ごま、半紙他、小浜に北前船で運ばれてきた多量の物資がここに中継された。
 熊川特産の「葛」は11月下旬最盛をむかえる。
町奉行所や小浜藩の米蔵、番所と呼ばれる女留の関所も置かれた。
現在、伝統的建造物群保存地区に選定されている。

B 朽木村
鎌倉時代の承久の変以降、近江佐々木氏の子孫がここに定住し朽木氏を称した。江戸時代は9590石。室町時代足利義晴や義輝が戦乱をのがれてこの地に滞在したことがある。信長が浅井長政の離反により敦賀から若狭を経て京都に撤退する時に朽木氏が信長に協力し供応したことが有名。
朽木村市場では若狭の海産物、朽木の薪炭、琵琶湖の魚などが集まる物流の拠点であり、街道沿いの宿は都へ向かう多くの行者でにぎわっていた。現在、鯖のナレズシがつくられ販売されている。

C 大原
大原の入口に花尻橋があり界隈を花尻ノ森という。頼朝が寂光院に隠棲した建礼門院の動静を監視させた源太夫なるものの屋敷跡と伝えられる。徳子(清盛の二女)は17歳で高倉天皇の女御となり安徳帝を生むが、壇ノ浦で源氏に敗れ大原の寂光院で余生を送ることとなる。近侍していた阿波内侍(ないし−女官)が山に薪集めに出かけたときの風姿が「大原女」として残った。柴漬も建礼門院が保存食料として、なす・しそ・みょうがの類を塩漬けにしたものが民間に伝わったものであろう?野村別れから左山手を登って行くと小丘の山裾に惟喬(これたか)親王の墓がある。親王は異母弟の惟仁親王(清和天皇)奪われ皇太子への道をふさがれ閉居されたと伝えられる。
三千院は慈覚大師(794〜864)がはじめて中国天台山の唐山魚山の山号にならって唐山魚山大原寺と号した。大原の地名もこれによった。平安末期聖応大師良忍が来迎院を再興、その草庵、坊舎の集落化したものが三千院本堂や寂光院、寂源が勝林院を建設し寺坊49院に及んだが、中世の兵乱でいまは来迎院、勝林寺、魚山本坊三千院を残すのみとなった。
古知谷阿弥陀寺は三千院から北へ2km行ったところにあり、1609年弾誓(だんせい)上人が開創した念仏道場。上人自体の髪を植えてある自作の植髪の像がある。

D八瀬
一に矢背と書くのは、壬申の乱(672年)に大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子と争い敗れ、この地にきた時に流れ矢が背にあたって負傷されたからだという。傷を癒すために建てたのが八瀬のかま風呂である。
*かま風呂
遺跡は八瀬大橋の北にある。土饅頭型の三畳敷きぐらいの蒸し風呂である。青松葉を焚きかまどの土が熱したころをみはからって火をひき、塩水を浸したムシロを敷いて横になって温まる。
かま風呂跡の南に絶壁の上に立つ「かけの観音」は自然石に線彫りした観音様が本尊。平治の乱で敗れた源義朝が京から東国へのがれようとした時に山門の僧徒におそわれ、危機脱出を願い石に矢じりで刻んだものだといわれている。観音前の八瀬川の巨岩はそのさい義朝が馬上のまま飛び越えた石ということで名付けて「義朝駒飛石」という。その上流が甲ヶ渕といい義朝の臣・斉藤別当実盛がかぶとをぬいで群がる僧徒に投げつけ、ひるむすきに主従32騎が駆け抜けたという。
1336年後醍醐天皇が足利尊氏に追われ比叡山に逃れたときに八瀬童子が護衛。その功により年貢・諸役を免除された。その返礼として皇族の葬祭や大嘗祭の駕與丁(がよちょう)を務めることになった。以降、都に急変があれば童子がはせ参じ、明治維新の際も御所に詰めて宮中の御用に務めた。葵祭りで御所車を先導するのは八瀬童子で朝廷と深い関係があった。

*赦免地踊り
毎年10月1日におこなわれる秋元神社の奇祭。女装した若者が透かし彫りの紙灯篭を頭に頂き哀調のリズムで踊りあかす。それは秋元但馬守喬知(たかとも)への報恩のためである。
喬知は1699年老中となりその在任中八瀬村は比叡山と村境をめぐって争いがあった。延暦寺が結界立入禁止を一方的に主張し、入山が禁止されると柴炭で生活する八瀬にとっては死活問題で長い間困り果てていた。八瀬村は後醍醐天皇以来禁裏に奉仕し地租免税をうけていたが、死活問題だということで江戸幕府へ訴えた。なかなかとりあげられなかったが、喬知はわざわざ八瀬に来て八瀬側に理があることを認め八瀬村にある私領寺領の弐百石余りを他へ移し一件落着となって旧例どおり一切の年貢を免除したという。感激した村民が喬知の霊を祀ったのが八瀬天満宮境内にある秋元神社であり赦免地踊りを始めた。八瀬の念仏講で八瀬恩人の後醍醐天皇、近衛基ひろ、徳川家宣、秋元喬知を供養することとなった。
 後醍醐天皇−足利尊氏との合戦で比叡山へ避難する天皇の輿をかつぎ八瀬童子が協力・結束した。
 徳川家宣――他郷からの入山禁止、柴木伐採の特権を与えた。

E 上高野−崇道神社と小野毛人の墓
崇道神社は785年長岡京でおこった藤原種継暗殺事件の黒幕として捕らえられ、無実をはらせず憤死した桓武天皇の弟早良親王を祀っている。
境内末社である出雲高野神社、伊多太神社、小野神社を創建年代、性格も異なる神社を大正4年に崇道神社内に再興した。
伊多太神社は最も古い地主神でありイタダは湯立てと言う意味で神前で湯をわかし坐女が笹の葉で熱湯にひたし参拝者にふりかけて豊作を祈念する神事からきており、出雲系の農耕守護神を祀った社と考えられる。平安遷都以前出雲系農耕民が住んでいた証しであろう。その後琵琶湖西岸の小野(志賀町)に住んでいた小野氏が京に進出した。小野には小野神社・小野 神社・道風神社・小野妹子墓と言われる唐臼山古墳がある。小野妹子はじめ小野氏が京の高野に進出した。やがて一部は小野小町が住んでいた山科の随心院あたりにも移った。1613年に小野毛人(妹子の子)の墓が崇道神社裏山からみつかっている。臣から朝臣になったのは684年以降であるので677年没すと書かれているのは毛野(けぬ 毛人の子)の時代に追納された可能性が高い。

F 平八茶屋−山端の地にある
主人の名が確認できるだけで20代前(1573〜92)の創業といわれる。
比叡山の道であり若狭街道沿いでしかも赤山禅院が近くにあって参詣者や旅人、商人に名物の麦飯とろろを提供していた。麦飯とろろは短時間で食べられ栄養価も高い。壬生狂言「山端とろろ」でもとりあげられている。平八に留まった京のお大尽をねらった盗賊が茶屋の下男とわたりあった時、下男のとろろのついたすりごきのとろろが刀のさやにつきすべって刀が抜けず、その上すりばちをひっくりかえしてとろろですべり、ほうほうの手で逃げていくという筋である。
頼山陽の漢詩、夏目漱石の「虞美人草」徳富蘆花の「思い出日記」に平八の名が登場する。
幕末北前船で活躍した川渡甚太夫(かわとじんだい)の一代記の中で1839年平八茶屋の前の道の状況が書かれている。「その日赤山まいりの日で京都から参詣の人が群集をなし、そのうえ八瀬や大原の柴売り女が戻ってきたので道も狭いと思うほどであった。」
平八は若狭でとれた魚が京でどこよりも早く届く所である。
魚は生きている間に海水くらいの水につけるか又は塩をうって荷に詰め、朽木の市場か大原の小出石あたりで京都からの運搬人に引きつぎ平八に着くのが朝の4時ごろで、そのころに蛋白質はアミノ酸に変化しぐんと味を増すのである。都の通人は食べ頃になった鯖やぐじをここで待ち構えて食したという。
赤宮神社の前に高野川原新田(1671)が開拓された経過を示す石碑が建っている。  後水尾上皇の修学院離宮への御行に際し高野川堤に私費で道路を開いた豊後屋又兵衛に新田開発許可がなされているが、しばしば洪水のため田畑が流され容易に人口は増えなかった。

G 百万遍
下鴨神社の神領地で百万遍知恩寺が江戸初期に開かれ門前町となった。
知恩寺は後醍醐天皇(1331年)の時に疫病が流行したさい、時の住職善阿上人が勅命で7日間百万遍の念仏をとなえたところたちまち疫病が後をたったということで寺号を賜ったと伝えられる。境内には伏見城を死守し″血天井″を残した鳥居元忠や秀吉の軍師だった竹中半兵五衛の墓がある。

H 干菜山斉教院光福寺(ほしなさん)
出町柳にある六斉念仏総本寺と称されている。秀吉に干菜(干した大根の葉)を食べていただき喜ばれ、その山号と共に諸国の六斉念仏講中(仲間)を支配する免状を与えられたという、いわば六斉念仏の総元締めというべき寺院。若狭には過去130箇所(現在は30箇所)の六斉念仏の寺院があり、これは室町〜江戸初期にかけて若狭街道を通して伝わったものと考えられる。
高野川の氾濫がひどかったため今のルートとははずれ百万遍あたりから西へ寺町今出川の大原口へ

I 大原口−今出川寺町東北角に1868年建立された道標が建っている。京の七口の一つ。
当所には人足御用を務める若狭屋九左衛門が住んでいた。又ここは鞍馬街道に通じており運送業を営むには最適だった。
現在出町橋と河合橋で二つの川を渡るが明治23年に府が買い上げるまで橋は個人の所有で、長い一つの橋が架かっており通行には橋銭が必要だった。
幕末まで出町柳には柳の木がたくさん植えられていたが、今は若木ばかりである。
今の出町柳駅のところに茶屋があり柳の茶屋と言われていた。
ここで小浜からの海産物等は仲買人に渡される。界隈は魚だけでなく近江の木工品や鮎などの川魚、近郊の野菜や薪炭などの品々が集まり大いに賑わった。
京都に届いた鯖は鯖寿司として食卓に上ることが多い。祭り、特に葵祭(5/15)に鯖寿司を食べる習慣が残っている。下鴨神社に供える御菜5種の中に一匹丸のままの鯖が入っている。

佐竹清己

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