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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 


思い出を綴るー私たちの上高野 地域の歴史


目 次

桜並木、地蔵盆、秋まつり
 −なつかしい三宅八幡参道−
水島ひろし
  岩倉花園町在住
地蔵盆 佐竹清己
 上高野在住
追記
昭和35年前後の上高野の子どもの行事、出来事、手伝い、遊び



桜並木、地蔵盆、秋祭り −なつかしい三宅八幡参道−

 上高野を離れ41年。今も頭に浮かぶのは三宅八幡宮参道の桜並木、地蔵盆、八幡さんの秋まつりです。わたしは団塊の世代の一人で、昭和25年から35年当時、参道には元気な子どもの声があふれ、日が暮れるまで遊んだものです。残念ながら美しい桜並木の風景が見られないのは寂しいですが・・・。


長老たちの熱意

 毎年の地蔵盆は、町内の枠を超え参道住民が一体となり、長老の方々の熱意でそれは盛大なものでした。三宅橋の双葉の河口さん、小川さん、椿さん、袖岡さん、二股さんなど次々とお名前がでてきます。スイカ割り、境内での宝探し、メインは子どもの演芸大会でした。子どもたちの一所懸命の演技に皆が拍手喝采したものです。熱心に指導されたのは宮越商店の南隣におられた山本さんという女性の方。ご健在ならもう75歳くらいのお歳ではないかと思います。なつかしい限りです。


村はずれの地蔵さん

 わたしは北田町の地蔵さんの横に住んでいましたが、今は更地になり地蔵さんだけが当時のまま祀ってあります。町内の方から地蔵さんの由来について聞かれましたが詳しいことは分かりません。ただ家の者から伝え聞いていることはわたしの曾祖父にあたる竹蔵が明治期に岩倉花園からこの地に住居を移した時に一緒に持ってきたようです。

 昔は高野村(現・上高野)から花園村(現・岩倉花園町)を結ぶ道は、三宅八幡宮の境内西側に沿って今の洛北せいか幼稚園、高樹院の前の道がそうであったようです。農道みたいなもので、タンポポやレンゲが咲くのどかなものであったと思います。この道にはいくつかの地蔵さんが祀ってあり、往来する村人を見守り続けたと考えられます。そのうちの一つが参道の地蔵さんではないでしょうか。

 郷土史によれば、昔から上高野、岩倉一帯は良質の土が取れ、瓦作りの窯がたくさんあったと書かれています。竹蔵も明治期に八幡さんの北側で瓦作りの励んでいました。地蔵さんの屋根瓦もおそらく竹蔵らの自作のものであったと思います。


子を見守り交流の場

 参道も時代とともに様変わりしました。西側には住宅が立ち並び少年のころ遊んだ小川はなくなったようです。しかし東側を見上げると三明院の塔が見え、昔の里山の風景が残っています。絵に描きたいような美しさです。

 子どものすこやかな成長、地域の安泰を願うのはいつの時代も同じです。そして今もこの地蔵さんの前に子ども達が集り地蔵盆が行われていると聞いております。明治以前、おそらく野辺にあった「村はずれのお地蔵さん」が、この地にご縁があって明治、大正、昭和、そして平成のいまも子どもを見守っていることを思うと郷愁を覚えます。何にも代え難い貴重な文化財ではないかと考えます。地域の交流、結束の場としていつまでも残していただきたい。

水島ひろし 岩倉花園町在住

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地蔵盆

夏の終わりを告げる風物詩として京都を中心に行われている地蔵盆は、地蔵尊の縁日である8月27日を中心に毎年8月22日〜24日にかけて実施されてきました。今の形態は明治以降と推定され、戦前と戦後ではその内容は異なっていたと思われます。

お地蔵さんは正式には地蔵菩薩といい、お釈迦さんが亡くなった後一切の迷える衆生(しゅじょう)を救済するようお釈迦さんが依託された仏で、我々と同じ姿をされ、我々のすぐそばでどこにでも祀られ、身近な願いや悩みを訴える信仰の対象とされてきました。

昔は乳幼児の死亡率が高く、子どもを亡くした親・子供をいつくしむ親の祈りが空也上人の「賽の河原の地蔵和讃」で言われているように、父恋し・母恋しと泣くみどり児が父・母のため河原の砂を塔に積んでいるところに鬼が現れ鉄棒で壊してしまう。そこへ地蔵尊がかけつけ子どもを救いかばわれたということからお地蔵さんと子供の縁が深いと言われる所以です。
子供を死なせた苦しみにつけ、子供をいとおしむ親の心がお地蔵さんを子供たちの守護仏として大切に祀り、縁日の地蔵盆をいつしか子供中心の行事にしていったようです。

上高野地区でも各町内で地蔵盆が行われています。
高野川の北で昔からの家々が並ぶ地域では隣組単位ぐらいに地蔵さんがあり、8月23日にはそれぞれが地蔵さんの前にござを敷き、子供たちはおやつを食べながら好きなおもちゃで遊んだり本を読んだりし、昼には手作りのこんにゃくとちくわのにしめをおかずにおにぎりを食べ一日を楽しんでいる。おにぎりは隣組単位の家庭にも配っているそうです。又、27日は大日如来の日でこの日は町内全域の人が崇道神社境内の大日さんの前で数珠回し等をするとのことです。

高野川南の昔からの家々が並ぶ地域でも隣組単位ぐらいに地蔵さんがありそれぞれの家庭で管理しているとのことです。
昭和20年代初期〜昭和30年頃までは、地蔵さんを守っている人が隣組範囲の人を招待するような形態でおにぎりをふるまったり、福引き−ex将棋の駒−をしたりし、招待を受けた隣組単位の人はお供えをしていました。

昭和30年頃から行事をする隣組単位は少なくなってきましたが、継続している組は地蔵さんの前で西瓜割、おやつ−西瓜・アイス、椅子とりゲーム、福引き、花火、数珠回し等をやり、昼食は大人も子供もいっしょにおにぎりを食べていました。時代を経るに従い行事をする隣組単位は少なくなってきており、現在は一組になってしまっています。

昭和60年頃から子供の人数も少なくなってきたため、その頃から町内全域を対象に8月20日前後の日曜日に崇道会館にお地蔵さんを運び地蔵盆をやり始め現在に至っているとのことです。内容はおやつ、昼食、紙芝居、ビンゴゲーム、大人の福引き、数珠回し等で、夜は近くの食堂で大人の懇親会・交流会をやっている。
花園橋近辺の昔からの家々が並ぶ町内も上記地域と同じような内容の行事をやってるとのことです。

私の育った町内は以前の三宅町で、範囲は三宅橋〜八幡さんまでの参道沿いの細長い町であり,地蔵盆は薩田町といっしょでした。当時(昭和30年頃〜昭和30年代後半)は参道沿いにしか家はなく、あとは田畑でした。今のように核家族ではなく人口も多く子供も結構いました。そのころは車もそれ程多くなく、テレビもまだ普及しておらず、近所の友達何人かで参道や八幡さん境内、刈り取った後の田、八幡山で毎日のように遊んだものでした。

その中で地蔵盆では、日頃交流のない者と遊んだり、大人と関わったり、おやつをもらい食べながらゲームに参加したり劇を見、時々それのハプニングを楽しみながらいつもとちがう日を過ごしたものです。
三宅町の地蔵さんは八幡さんの参道沿いの水島宅に隣接してあり、その前の参道にゴザや床机に座り、将棋、かるた、トランプ等で遊んだり行事に参加したりしていました。当時参道は桜ともみじの木が交互に山忠の所から八幡さんまで植わっており、木と木の間に布でゲートをつくりその下を通って会場へ入ったものです。

上高野の他町に住む長老(80歳弱)は、自分が子供の頃も水島宅横の地蔵さんで地蔵盆が行われており、特に印象に残っていることは向かいの家の2階からくじ引きの品物を紐でつるして下ろしており、子供心に「ええなあ」「参加したいなあ」と思ったことがあったと言っておられました。今から70年近く前のことと思われます。

また、同じ町内の60代中頃の男性は、昭和20年代後半〜30年代後半までの地蔵盆を次のように言っておられました。
行事は2日に渡ってあり、内容はお化け屋敷、幻燈、子供の漫才・おどり・劇、のど自慢、人形劇、宝捜し、スイカ割、大人・子供の福引き、紙芝居、肝試しがあった。特に劇や踊りは町内の女性Yさんが1ヶ月かけて教えてくれたその成果を披露するものであり、水島宅の一室を舞台にその時は参道の端までたいへんな人だかりでした。劇の出し物はたぬきばやし、赤頭巾ちゃん等で出演は主に低学年や幼稚園くらいの年齢のこどもでした。時々せりふをまちがえたり、忘れてしまったりしハプニングでどっと笑いがき、本人ははずかしがったり泣いてひっこんでしまったりとYさんも慌てる場面がありました。おどりは高学年の女子がしていました。昭和30年代中頃から舞台は水島宅から参道に床机で組んだ舞台でおこなっていました。しかし昭和40年近くになると、出演する子供も少なくなり、またYさんの都合もあり劇や踊りその他のど自慢、お化け屋敷等はなくなり行事は縮小され時代とともに変化していきました。

昭和40年代にはいると田畑は宅地化され人口が増えてきたため、昭和50年代に三宅町は鳥脇、池ノ内、三宅の三町に分かれそれぞれの町内で地蔵盆が引き継がれて久しくなります。

時代や世相は年々変化しその速さはめまぐるしくなってきておりますが、時代時代を受け継がれてきた地蔵盆は絶えることなく今後も引き継がれていき、子供どうし、子供と大人の楽しい思い出になるとともに町内の人間関係を密にする数少ない行事として、調和と連携に大いに役立っていくことは今後も変わりないと思われます。

佐竹清己 上高野在住

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追記

昭和35年前後の上高野の子どもの行事、出来事、手伝い、遊び

1.下校時
授業が終わると放課後、運動場すみにある鉄棒や相撲をし17時頃校門を出、かばんの持ち合いをした。じゃんけんで勝ったらex牛と言い、見つけるまで負けた者はかばんを持ちつづけ見つかればそこでじゃんけん、勝った者はちがう内容を出し修学院の駅に着くまでしたものでした。

2.地蔵盆
8月23日、24日の2日間にわたって子どもの行事を上高野でも各町内で盛大にやられていました。スイカ割、宝捜し、くじ引き、のどじまん、劇、紙芝居等があり、おやつをもらい食べながらくじ引き、劇には親も一緒に楽しんだものです。

3.ラジオ体操
小学校に入れば八幡さんの境内で夏休み中ずっとやったものです。全員意外と休んだ日は少なかったようです。終了後6年生が判子をおしていました。使い古された判子だったため周りがぼんやりしていました。体操が終わると6年生がリーダーになってハンカチとりゲームをすることもありました。1年生のときそのゲームのルールがわからず笑われたものでした。

4.紙芝居
昭和30年過ぎ頃おじさんが拍子木を打って子どもを空き地や八幡さんの境内に集め、5円〜10円をだして水あめをなめながらおじさんの紙芝居をみたものです。金をはらってない子どもにはただ見しないようおじさんは言っていましたが、やかましく言わないので言われた子どもは躊躇しながら見ていました。昭和30年代中頃になるとテレビが普及し始めおじさんの姿は見られなくなりました。

5.牛の世話
私の家には牛はいませんでしたが、家の中に牛部屋があり、朝食はあぜで刈った草か干草を食べさせていました。夕食は短く切ったわらにぬかやふすまを混ぜ湯にかけて食べさせました。世話は大変でした。昭和30年代に耕運機が普及するとすっかり姿を消し上高野でも全く見かけなくなりました。

6.割り木造り
戦後石油が自由に使えなかったので山から木を切り出して割り木をつくって炊事、風呂の燃料にしたものです。切り出された木の枝を払い適当な長さに切り、なたで四つわりにしてまきをつくりました。昭和30年過ぎ頃から石油やガスが出回り始め、山に入ることはなくなり山は放置され荒廃していきました。シイなどの常緑樹が優勢となり山は暗く動物、植物、昆虫が消えつつあります。また、地球温暖化を招いています。

7.米の収穫
収穫時は脱穀機を足でこいでもみに分離したり、手で扇風機を廻し藁ともみを分けることを手伝ったりした。最も重労働だったのは、4斗〜5斗はいったもみの袋を荷車が置いてある道まで担いでいくことと、もみ袋5個ほど乗せた荷車を家まで引っ張っていくことであった。当時、道は今のようにアスファルトではなかったので大変な力が必要でした。

8.遊び
家が八幡さんに近かったため、学校から帰ると毎日のように境内で5〜6人で遊びました。
主だった遊びとしては、10.カンけり 11.つかまえ 16.じらいこっぺ 18.ビー玉 19.めんこ 22.ソフトボール 27.八幡山でのそり遊び 32.胴馬 36.八幡山の奥深くまで行き栗とりを5〜6人くらいでやったものです。
1.紙芝居 2.羽つき(主に女子) 3.凧揚げ
4.カルタとり 5.すごろく 6.ローラースケート
7.魚とり 8.紙鉄砲 9.かくれんぼ
10..カンけり 11.つかまえ 12.どろじゅん
13.縄跳び(主に女子) 14..駒回し 15.釘さし
16.じらいこっぺ(※) 17.しょうけり(※) 18.ビー玉
19.めんこ 20.おはじき(主に女子) 21.相撲
22.ソフトボール 23.陣取り(※) 24.くわがたとり
25.雪合戦 26.ドッチボール 27.そり
28.バトミントン 29.卓球 30.将棋
31.洞窟 32.胴馬(※) 33.石蹴り(※)
34.馬とび 35.シャボン玉 36.栗とり
37.草船競争 38.水泳 39.手裏剣
40.紙鉄砲でのゲーム    
遊びの内容の説明(上記表中※印)

16.じらいこっぺ
帽子のかぶりかたで優劣をつけ2組に分かれて王様を攻略するゲーム。同じ階級どうしがタッチしあった場合はグーチョキパーで決める。王が攻略されれば負け。

17.しょうけり
2m程の間隔で相手が立てた石を自分の石で倒すゲーム。最初は両目を開いて右腕で、左腕で、片方の目で、目を閉じて、足にはそんで同じことを、足の後ろから同じことを足の甲に乗せて、石をけって同じことをやり一番早く終えたチームが勝ち。

23.陣取り
2組に分かれ相手チーム陣地内のメンバーを相撲で勝ち最後に残ったメンバーがいるチームが勝ち。

32.胴馬
前の人の股下に首を突っ込みその後ろの人も首を突っ込み、相手チームがその上に飛び乗りゆすらせて馬になっているチームがくずればもう一度乗れる。胴になっている先頭の人から下りる指示があればじゃんけんで勝てればもう一度乗れるが、負ければ胴を交代する

33.石蹴り
地面に四角い箱を6個ほど描き、石を蹴りながら描いた線や外にでないで、右足次に左足の順で先に早く終えた者が勝ち。

佐竹清己 上高野在住

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